2024年7月26日の日記より
ホームページに、ポリアモリーについてのぼやきを書き足そうと思う。
誰も見ていないだろうという前提で、こっそりと。
自分の気持ち…「不倫はキライである」ということ。「気持ち的にツラい」ということ。不倫の開き直りや不倫の正当化の人たちの話を聞いたり、一緒にされたり、ポリアモリーがそういうものへと変化していくのをこの目で見るのがツラかったということ。何より、好き嫌いの感情として、私は不倫はキライなんだと。不倫がキライだからポリアモリーというスタイルを選んだのに、なぜ、ポリアモリーが真逆のものにされてしまったのかと。
そういうことを、寝起きにぼうっとイメージした。前に進み始めているということだと思う。
この文章を書くきっかけになったのは、自分が回復してきたこともあるが、軽井沢の図書館で萩上チキさんのポリアモリーについての本が入り口付近のLGBTコーナーの目立つところに置かれていて、その表紙に「好きな人がふたりできたら読む本」のように書かれていたことがある。
ポリアモリーは好きな人がふたりできたら対処するようなものではないし、好きな人がふたりできてしまう人のことでもない。
私はメディア関係の知人から、著名なラジオのパーソナリティーが奥様に不倫がバレた時に「僕は実はポリアモリーなんだ!」と開き直り、周りの人たちを失望させたという話を聞いたこともあった。
言うまでもなく、ポリアモリーはそういったものではない。そうしたことから最も遠い位置にあるのがポリアモリーである。だが、メディアに携わる人たちの中に、そうした勘違いや開き直りをしている人たちが少なからず存在することも事実である。権力のある人たちにあまりにも都合が良い言い分へと書き換えられている。
あまりに心苦しくて、その本は読めなかったのが、いまだにそうした勘違いを拡めているのかと、ポリアモリーについて誤解を生むような表記に私は深く失望し、憤りも感じた。自分のやってきたことは何だったのかと。大きな力の前には、自分はあまりにも無力だと。