2025年4月23日

ポリアモリーというムーブメントも乗っ取られたのだと気付いたのは、最近のこと。
同性愛者の運動が乗っ取られ、フェミニズムが乗っ取られたように。
こうした流れの根っこにあるのは、男権拡張運動である。

私がポリアモリーについて発信を始めた2014年頃、最初に攻撃してきたのは、左派の男性たちだった。彼らの言い分はこうだ。
「不倫や浮気のほうが文化として高度であり、面白みがあるものであり、ポリアモリーは劣ったものだ」
つまり、「俺たちの不倫や浮気をする権利を奪うのか」ということだ。
そして、「女に同様の権利を与えることは許さん」ということでもある。
不倫や浮気をすることができるかどうかは、実質的に、男女で非対称性があり、経済的に優位であることが多い男性は不倫や浮気をしやすく、バレたとしても離縁されにくい。
(少しずつ状況は変わってきてはいるが、いまだに、経済的男女平等とは程遠いだろう)
こうした自分たちに優位な状況のもとでの特権を、ポリアモリーという概念は破壊する、というのが、左派の男性たちが危惧したことだった。
ポリアモリーという概念は、同意のない関係性をゆるさないものだからだ。
もし、新たに関係を始めたくなったとしても、既存のパートナーの同意が得られなければそれをしてはならない、というのがポリアモリーだからだ。
不倫や浮気とは真逆の概念である。

ところが、「複数を好きになってしまう特殊な性質」とポリアモリーのことをミスリードする人たちが現れると、それまで批判してきた左派の男性たちは、一斉にポリアモリーという言葉を持ち上げるようになった。
そして、「自分はポリアモリーだから」と、自らの不倫や浮気を肯定する概念として使い始めたのだ。しかも、あろうことか、マイノリティとして被害者のような振る舞いで。
これは、「浮気は男の甲斐性」だとか「男が浮気をするのは本能」だとかと、何が違うのだろうか。
彼らは、批判から一転して、男にとって都合が良い概念として、「ポリアモリー」という言葉を乗っ取り、利用することにしたわけである。

2024年7月26日の日記より

ホームページに、ポリアモリーについてのぼやきを書き足そうと思う。

誰も見ていないだろうという前提で、こっそりと。

自分の気持ち…「不倫はキライである」ということ。「気持ち的にツラい」ということ。不倫の開き直りや不倫の正当化の人たちの話を聞いたり、一緒にされたり、ポリアモリーがそういうものへと変化していくのをこの目で見るのがツラかったということ。何より、好き嫌いの感情として、私は不倫はキライなんだと。不倫がキライだからポリアモリーというスタイルを選んだのに、なぜ、ポリアモリーが真逆のものにされてしまったのかと。

そういうことを、寝起きにぼうっとイメージした。前に進み始めているということだと思う。

この文章を書くきっかけになったのは、自分が回復してきたこともあるが、軽井沢の図書館で萩上チキさんのポリアモリーについての本が入り口付近のLGBTコーナーの目立つところに置かれていて、その表紙に「好きな人がふたりできたら読む本」のように書かれていたことがある。

ポリアモリーは好きな人がふたりできたら対処するようなものではないし、好きな人がふたりできてしまう人のことでもない。

私はメディア関係の知人から、著名なラジオのパーソナリティーが奥様に不倫がバレた時に「僕は実はポリアモリーなんだ!」と開き直り、周りの人たちを失望させたという話を聞いたこともあった。

言うまでもなく、ポリアモリーはそういったものではない。そうしたことから最も遠い位置にあるのがポリアモリーである。だが、メディアに携わる人たちの中に、そうした勘違いや開き直りをしている人たちが少なからず存在することも事実である。権力のある人たちにあまりにも都合が良い言い分へと書き換えられている。

あまりに心苦しくて、その本は読めなかったのが、いまだにそうした勘違いを拡めているのかと、ポリアモリーについて誤解を生むような表記に私は深く失望し、憤りも感じた。自分のやってきたことは何だったのかと。大きな力の前には、自分はあまりにも無力だと。