2025年6月4日

もし私が、
私のパートナーが不倫や浮気(cheating)をしていて、
「自分は実はポリアモリーで、複数の人を同時に本気で好きになる性質なんだ!」と言われたら、
「だから?それってあなたが私を裏切ったことと何か関係があるわけ?」と言うだろう。

ポリアモリーというのは、
複数の人を同時に好きになる性質のことではないし、cheatingとは真逆のことであるのだが、
それを脇においても、
複数の人を同時に好きになることと、不倫や浮気(cheating)をすることは、イコールではないからだ。

好きということは、セックスするということとイコールでもないし、
愛や恋にはプラトニックという形もある。

不倫や浮気は、パートナーだけでなく、不倫相手、浮気相手も不幸にするもので、
そんな関係を、本当に好きな相手に対して、望むだろうか。
本当に好きなら、プラトニックなものとしておくのではないだろうか。

そして何より、不倫や浮気(cheating)は、
嘘の契約によって、自分のパートナーを縛り付けているまま、
自分だけは、他にも相手がいる、という状態である。
だから、「チート」なのだ。

パートナーには機会損失を生みながら、自分は他からも利益を得ている状態。
そして、嘘によってパートナーから信用を得て利益を引き出している状態。

「自分はポリアモリーなのだ!」
と不倫や浮気を開き直る人たちは、自分らをこの社会のシステムの被害者のように感じているのかもしれないが、
そのシステムを利用して、相手を縛り付け、相手から利益を引き出しているのは、紛れもなく、その人たち自身なのである。

2025年5月17日

ポリアモリーにおいて、複数の人を同時に好きになる性質かどうかといったことは、全く関係のないことである。
それよりも、次々と相手を変える、シリアルモノガミー(連続単婚)への問題意識から、ポリアモリーは生まれたのだ。

私自身のことを考えてもそうだ。
先にLINEのスクリーンショットをアップしたのは、私の学生時代のナイトクラビング仲間とのやりとりなのだが、彼女の言葉で思い出されたことがある。
「それってフリーセックスじゃん」という言葉だ。

私が青春時代を過ごした90年代、00年代は、ほとんどフリーセックス的な価値観が蔓延していた時代と言ってもいいと思う。
そうした時代に過ごしていて、私が感じていたのはシンドさ、不毛さだった。
(そのことについては以前出した本にもたっぷり書いたし、スタジオボイスのインタビューでも少し触れている。)

アメリカにおいても、ポリアモリーはフリーセックスへの問題意識、反省から生まれたものだ。

2025年5月3日

ポリアモリーについて、日本語で正しい情報を発信し続ける人が他に見当たらないので、やっぱり私が知っていることを書いていかなければならないのだろうと思った。

体力も必要なので、少しずつ。

・アメリカのポリアモリーの学会で、「なぜ日本のフェミニストはポリアモリーをやらないのですか?」と聞かれたこと

・同じくアメリカのポリアモリーの学会で、「日本の男性はポリアモリーをやらずに、不倫や浮気(cheating)をすると聞いたけど、なんで?」と聞かれたこと

これらについても、いずれ書かなければ。

今、簡単に触れておくと、このふたつの質問から言えることは、「ポリアモリーは<複数を同時に好きになる性質を持ったセクシュアルマイノリティ>とは異なるものである」ということである。
もしポリアモリーが複数を同時に好きになる特殊な性質を持った人、ということであれば、不倫や浮気をする人も含まれるのだし、(実際に不倫や浮気の言い訳で「自分はポリアモリーなんだ」と言う人が多くいるらしい)フェミニスト皆が実践できるようなものでもない。つまり、先のふたつの質問は成り立たないのである。

2025年4月23日

ポリアモリーというムーブメントも乗っ取られたのだと気付いたのは、最近のこと。
同性愛者の運動が乗っ取られ、フェミニズムが乗っ取られたように。
こうした流れの根っこにあるのは、男権拡張運動である。

私がポリアモリーについて発信を始めた2014年頃、最初に攻撃してきたのは、左派の男性たちだった。彼らの言い分はこうだ。
「不倫や浮気のほうが文化として高度であり、面白みがあるものであり、ポリアモリーは劣ったものだ」
つまり、「俺たちの不倫や浮気をする権利を奪うのか」ということだ。
そして、「女に同様の権利を与えることは許さん」ということでもある。
不倫や浮気をすることができるかどうかは、実質的に、男女で非対称性があり、経済的に優位であることが多い男性は不倫や浮気をしやすく、バレたとしても離縁されにくい。
(少しずつ状況は変わってきてはいるが、いまだに、経済的男女平等とは程遠いだろう)
こうした自分たちに優位な状況のもとでの特権を、ポリアモリーという概念は破壊する、というのが、左派の男性たちが危惧したことだった。
ポリアモリーという概念は、同意のない関係性をゆるさないものだからだ。
もし、新たに関係を始めたくなったとしても、既存のパートナーの同意が得られなければそれをしてはならない、というのがポリアモリーだからだ。
不倫や浮気とは真逆の概念である。

ところが、「複数を好きになってしまう特殊な性質」とポリアモリーのことをミスリードする人たちが現れると、それまで批判してきた左派の男性たちは、一斉にポリアモリーという言葉を持ち上げるようになった。
そして、「自分はポリアモリーだから」と、自らの不倫や浮気を肯定する概念として使い始めたのだ。しかも、あろうことか、マイノリティとして被害者のような振る舞いで。
これは、「浮気は男の甲斐性」だとか「男が浮気をするのは本能」だとかと、何が違うのだろうか。
彼らは、批判から一転して、男にとって都合が良い概念として、「ポリアモリー」という言葉を乗っ取り、利用することにしたわけである。

2024年7月26日の日記より

ホームページに、ポリアモリーについてのぼやきを書き足そうと思う。

誰も見ていないだろうという前提で、こっそりと。

自分の気持ち…「不倫はキライである」ということ。「気持ち的にツラい」ということ。不倫の開き直りや不倫の正当化の人たちの話を聞いたり、一緒にされたり、ポリアモリーがそういうものへと変化していくのをこの目で見るのがツラかったということ。何より、好き嫌いの感情として、私は不倫はキライなんだと。不倫がキライだからポリアモリーというスタイルを選んだのに、なぜ、ポリアモリーが真逆のものにされてしまったのかと。

そういうことを、寝起きにぼうっとイメージした。前に進み始めているということだと思う。

この文章を書くきっかけになったのは、自分が回復してきたこともあるが、軽井沢の図書館で萩上チキさんのポリアモリーについての本が入り口付近のLGBTコーナーの目立つところに置かれていて、その表紙に「好きな人がふたりできたら読む本」のように書かれていたことがある。

ポリアモリーは好きな人がふたりできたら対処するようなものではないし、好きな人がふたりできてしまう人のことでもない。

私はメディア関係の知人から、著名なラジオのパーソナリティーが奥様に不倫がバレた時に「僕は実はポリアモリーなんだ!」と開き直り、周りの人たちを失望させたという話を聞いたこともあった。

言うまでもなく、ポリアモリーはそういったものではない。そうしたことから最も遠い位置にあるのがポリアモリーである。だが、メディアに携わる人たちの中に、そうした勘違いや開き直りをしている人たちが少なからず存在することも事実である。権力のある人たちにあまりにも都合が良い言い分へと書き換えられている。

あまりに心苦しくて、その本は読めなかったのが、いまだにそうした勘違いを拡めているのかと、ポリアモリーについて誤解を生むような表記に私は深く失望し、憤りも感じた。自分のやってきたことは何だったのかと。大きな力の前には、自分はあまりにも無力だと。